まず、対馬−壱岐において本来「東南」とすべき方向を「南」としており、 45度程度のずれがあります。壱岐から対馬を望めば方向は確認できるはずなのに、 それでもこのような錯誤があります。 このような記述になってしまった理由は不明ですが、 「太陽の最高点は海南島の真上であり、場所が異なれば 洛陽で見る太陽の方向とは異なってしまう」 という誤解の可能性が考えられます。 もしそうだとすると、この誤解はこの後の行程も続くことになります。 実際、九州における行程でもそうなっているように見受けられます。 さらに、四国東部説を取る場合、 対馬−壱岐間の方位からさらに45度以上の誤差ということになります。 そのため、なぜこのような誤差が生じるのかを説明しなくてはなりません。 (さらに方位のずれが拡大するという解釈もありえますが、 水行十日程度の差で方位を変える必要を感じたでしょうか。)
まず、いくつか潮流図をあげておきます。 東西方向への潮流の最高速度は1〜2ノット、 幅が狭いところでは5〜10ノットになるようです。 (1ノット=1.852km/h) 北九州から四国東部あたりの距離を500kmくらいに見積もり、 1日8時間航行を10日続けたとして、 平均航行速度6.25km/hくらいです。 潮流と平均速度の比から潮流の影響は大きいといえます。
よく知った航路であれば古代人は潮流を上手に利用したことでしょう。
魏使が各行程の航行時間と方向だけの記録で最終的な方向を
算出していたとすると、東西方向が相対的に短い地図を
作ってしまう可能性があります。 さらに、この潮流の利用によって、北九州から邪馬台国への行程が 『水行十日または陸行一月』というor式の問題点が解決します。 つまり、北九州と仮想位置(1knの潮流)との距離は もとの半分程度になっており、水行と陸行によるアンバランス の理由となり得ます。 |