東四国説の根拠

  東四国説の根拠

1 大域的構造(24国)

 畿内説も九州説も倭人伝に記された24国が どこにあるのか、国名と地名と弥生遺跡を 対応させた詳細な比定地図がない。 大抵、21国の順序を保っていないか、 地名が対応しないかのいずれか。 さらに、なぜ24国しかないのか説明できていない。 「説」というなら以下のような比定地図と対応地名表 を提示してほしい。 (下の2001年に書いた文章も参考にしてください。)
東四国説比定地図

2 局所的構造(都)

 東遷説の場合は記紀とのすりあわせが必要である。 大和王権を輩出した地域を特定し、記紀に記された 地名および地形が、その地域の地名と遺跡と対応するべき。 イザナギ、イザナミ〜神武における婚姻、闘争、埋葬の内容から、 偶然とはいえない狭い地域での対応となる。 たとえば、山と平地と海が近接している。
大麻山とその周辺
 時代は卑弥呼を記紀の誰に対応させるかで異なるが、 この東四国説の場合は卑弥呼=天照大神としている。 その理由は、記紀のイザナミ・イザナギ〜天照大神の時代に 銅鏡の鋳造や祭器としての使用が記されていることによる。
天照大神=卑弥呼説

3 東遷の考古学的証拠(墓制)

 東四国の弥生末期の墓制と畿内との接続。 前方後円墳のルーツとされる萩原墳丘墓が近接する。
ルーツは徳島か?前方後円墳
萩原墳丘墓では楽浪で出土した鏡の踏返しとされる画文帯神獣鏡がいち早く副葬され、萩原の墓制に相通じる阿王塚古墳でも2枚の画文帯神獣鏡が副葬されている。
さらに、周辺の墳丘墓や古墳の埋葬者のおおまかな 推定ができる。 とくに卑弥呼に関係する人物の墓の位置(鳴門市大麻山)も推測している。
丸山「墳丘墓?」
 畿内との接続は、記紀におけるヒルコ、ニギハヤヒ、神武の伝承と 関係すると推測している。東遷は記紀に記されているように複数回行われた。 ホケノ、箸墓の古墳の築造では東四国出身者が主に関わった可能性が高い。
墳丘墓・古墳の埋葬者の推定

4 伊都国と女王国(文物の移動)

 歴代の王がいたもののすべて女王国に属したとされる 伊都国との関係を以下のように解釈できる。 まず伊都国は、邪馬台国ではなく女王国に属したことに 注意する。卑弥呼が女王となる以前に伊都国に 歴代の王がいたことは、遺跡や遺物などから推測できる。 伊都国が卑弥呼以前に属していたのは、投馬国に比定 される西四国である。考古学的な証拠として、 北九州を中心に出土する銅矛が、高知から53本、 愛媛から17本以上(古文書によれば44本以上)出土している という事実がある。これは対馬と福岡を除く他の九州地域 に決してひけをとらない。
九州地方からの銅矛出土数
 弥生後期後半にはいると、西四国(銅矛文化)と東四国(銅鐸文化) との関係が、様々な文物(土器・朱)の移動を通じて緊密になる。 これが投馬国と邪馬台国連合との和解の証拠である。 この和解によって、瀬戸内海を通過し北九州を経由して、 帯方郡にいたる航路が万全となり、阿波の有力豪族による 萩原墳丘墓および阿王塚古墳の舶載画文帯神獣鏡の獲得につながる。 そしてこの和解の背景のもと、女王の共立によって四国全体が 女王国と呼ばれるようになる。

つまり長い目で見ると、四国は北九州と畿内をつなぐ架け橋だったといえる。


2001年に書いた文章

 私が四国東部を強く推す理由は、 『四国東部説は比定地図があるけれど、他の説は不明』 だということです。
#後日、邪馬壱国の中心地域は阿波板野郡という 仮説を立てました。
#考古学上の遺跡や記紀との対応付けもうまくいっていると考えています。

 一般的に、この種の比定とは、「国名」と「地名」を比較しながら その当時の遺跡が存在することを確認する作業です。 ところが、新井白石や本居宣長以来、これを全ての地域で まともにやっていないと思います。 (彼等は遺跡地図をもたなかったので、どうしようもなかったでしょうが。)

 これまでの比定の問題点をいくつかあげてみます。
(1)邪馬台国、投馬国、狗奴国だけの比定が多い。
(2)24国(特に21国の順序)の構造を無視している。
(3)訳音の知識がない場合が多い。
(4)音韻の変遷の知識がない場合が多い。
(5)国名、郡名程度しか考慮していない場合が多い。

 もし、畿内説、九州説に「きちんとした比定地図」があるならば、 四国を取り上げる必要もないでしょう。 しかし、私は今まで「きちんとした比定地図」を見たことがありません。
#もし他にあれば、喜んで検討します。
#比定地図と類似地名表があれば、その類似の度合いを計算できます。

 邪馬台国だとたった3音の地名でしかなく、しかも「台」が 「壱」だった可能性もあります。 「邪馬」だと一般的な地形名「山」でしょうし、あまり比定に 役立ちそうにありません。 しかし、倭人伝では21国は順番にあると記述されており、 もしそうだとすると44音の地名があるようなものです。 これを比定に用いないというのは不思議です。

 四国東部説の場合、邪馬台国を除く23国のうち、 21国の国名に対して類似地名(郡名8、主要地名9、遺跡地名4) が残っていると主張しています。 単純な計算から、こんなことは偶然起こり得ないものと推測しています。 もちろん、こういうことが偶然だと思えば、日本のどこでもよいので、 同様な形でこれ以上に類似する仮の比定案をもってくればいいわけです。
#本当に単純な反論ですし、本当の場所が見つかるかも?

 四国東部説の場合、「邪馬台」に対応する類似地名は何かということを 明確に答えられません。しかし、私が比定する3県にまたがる広域 に対応する地名は「ない」のです。(伊予の一名?阿波讃岐?四国東部?)

 つまり、この7万戸という広域国家は、国造本紀における 国より大きな範囲だと考えられるわけで、地名として 残らない可能性もある、と思うのです。
#なお、中心地域の板野郡には、国名の一部として「壱=いた」が残った可能性があります。

 いずれにせよ、四国東部説を主張するのは、 「他に24国のきちんとした比定地図がない」という理由です。 ですから、「そうじゃない、ここにもこんなステキな比定地図がある!」 といってくれれば、「そっか〜」とこの説を投げ出せます。

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