猿田彦大神=魏使説

猿田彦大神=魏使説

古事記
「天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り。」

日本書紀
「一の神有りて、天八達之衢に居り。
其の鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余り。
当に七尋と言ふべし。且口尻明り耀れり。
眼は八咫鏡の如くして、てりかがやけること赤酸醤に似れり」

(鼻の長さ七咫(ナナアタ=約1.2m)もあり、背の丈は七尺(約2.1m)あまりで、
身長は七尋(ナナヒロ=約12.6m)近く。しかも、口と尻は明るく光っていて、
目は八咫鏡のように円く大きく、真っ赤なホオズキのように照り輝いている。)

古語拾遺
「一の神有りて天八達之衢に居り。
其の鼻の長七咫、背の長七尺、
口尻明曜。眼は八咫鏡の如し。」

明光鎧(唐代、左)

http://homepage2.nifty.com/wensu/twmu/Medieval/2.2.html

解釈
鼻は五尺刀で1.2mあり、背は魏使の身長で2.1m余りの高さで、
身長は魏使団の行列で12.6m程度の長さだった。
口と尻は魏使の明光鎧の腹部と背部の護心鏡であり、
目は胸部の2枚の護心鏡で、前後(上下)の両方向に輝いていた。

異国の使者との対面は、これほどまでに強烈な印象をもたらした。
この魏使は「親魏倭王」の金印と銅鏡百枚を携えた建中校尉梯儁と推測する。
これは金文京氏の「三国志の世界」でも考察されているが、
卑弥呼(天照大神)は帯方郡に使いを出したのであって、
魏に朝貢する考えはなく、魏使団の来訪は思いもかけないこと
だったのかもしれない。
身長が2.1mというのは少し大げさだが、鎧兜に身を包んだ武官の梯儁は、
実際より大きく見えたのだろう。「梯=はしご」「儁=すぐれる」
なお、天照大神と思金神の降臨先(伊勢)および天孫の降臨先(日向)
を示したのは、その後の魏使である塞曹掾史張政(国境守備の属官)と推測する。

古事記では上下を照らすだけだが、日本書紀の一書では口も輝いている。
唐代の鎧の影響があるのだろうか。
なお、胸部の護心鏡の周りは朱色だったのだろう。
また「七七七」と表され、中国の聖数七を強調している。
ちなみに、日本の聖数は八である。

「明光鎧」
三国時代・晋代には明光鎧・筒袖鎧が多く使用されている。
明光鎧の特徴は胸部と背部の円形の護心鏡と呼ばれる大型プレートで
胸部と背部の防御力を高めている。(口と尻が明るく光る。)
明光鎧の名は鏡のように磨かれた護心鏡がよく反射することに由来している。

参考:曹操の鎧(宋代?)
http://www.chugen.net/sangokushigoods/sangokush_nhk5.html

南北朝時期明光鎧(世界古代鎧甲大全)
魏晉北朝時期的鎧甲主要有甬袖鎧兩、襠鎧和明光鎧。
「明光鎧」一詞的來源,據説與胸前和背後的圓護有關。
因為這種圓護大多以銅鐵等金屬製成,並且打磨的極光,
頗似鏡子。在戰場上穿明光鎧,由於太陽的照射,將會發
出耀眼的「明光」,故名。這種鎧甲的樣式很多,而且繁
簡不一:有的只是在裲襠的基礎上前後各加兩塊圓護,
有的則裝有護肩、護膝,複雜的還有數重護肩。身甲大多
長至臀部,腰間用皮帶系束。左面陶俑是戴兜金、穿明光
鎧的武將;右面是明光鎧穿戴展示圖。

太陽的照射,將會發出耀眼的「明光」,故名

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