霊山寺

竺和山霊山寺(一乗院) A4

鳴門市大麻町板東
本尊:釈迦如来
開基:行基菩薩


霊山寺縁起
『・・・深山幽谷を跋歩し佛法相応の勝地を訪ね給ふ時、
當山に奇雲靉靆として光明空中に輝けるを見そなはし給ひ、
奇異の思を為し立ち寄り給ふに、今の伽藍の地に當り諸佛天人充満し、
中基には釈迦牟尼佛 左右には文殊普賢菩薩
各圍遶して一乗の法門を述べ給ふ姿、
さながら天竺鷲峯山説法の儀式に異ならざれば、
随喜渇仰の涙を浮べさせたまひ暫く佛面を拝しまつりしに
佛我が大師に告げて曰、
汝末世衆生済度の悲願を起し八十八ケ所を開かんとならば、
此処を第一番と定むべし・・・』


天平年間(729‐48)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開基された。
弘仁6年(815)弘法大師はこの地に21日間とどまって修法され、
四国88ケ所を開くことを祈願されたと伝えられる。

空海僧都伝
和上、故の大僧都、諱は空海、灌頂の号を遍照金剛といふ。
俗姓は佐伯直。讃岐国多度郡の人なり。
その源、天尊より出づ。
次の祖は、昔、日本武尊に従ひて、毛人を征して功あり。
因りて土地を給ふ。すなわちこれに家す。
国史、譜牒に明著なり。

御遺告
吾が父は佐伯の氏。讃岐の国多度の郡の人なり。
昔、敵毛を征して班土を被れり。


「空海と仏教とゆかいな仲間たちのスレII」に書いたこと

(一部修正、削除)

『古語拾遺』 斎部広成 (807年)

「其の高皇産霊神のなし生る
女の名を栲幡千々姫命と曰す(天祖・天津彦尊の母なり)。
其の男の名を天忍日命と曰す(大伴宿禰の祖なり)。
又の男の名を天太玉命と曰す(斎部宿禰の祖なり)。
太玉命の率ゐる所の神の名を
天日鷲命(阿波国忌部の祖なり)、
手置帆負命(讃岐国忌部の祖なり)、
彦狭知命(紀伊国忌部の祖なり)、
櫛明玉命(出雲国忌部玉造の祖なり)、
天目一箇命(筑紫・伊勢の両国の忌部の祖なり)
と曰す。」

#紀伊、出雲、筑紫、伊勢は四国東部の後です。
#高皇産霊神が産んだ娘が栲幡千々姫命、
#息子が天忍日命と天太玉命という意味です。


空海さんの出自と祖先の故郷

空海さんが自分を「天尊」の出自と主張した以上、
大学では中央貴族の子弟にそれを否定されたはず。
必然的にご自身の出自を調べていたとは思われませんか?
いったい空白の7年何をやっていたのでしょう。
なぜあそこまで嵯峨天皇と親しく接することが出来たのか。

空海さんが天尊にきわめて近い出自であると
思っていたことは多分了解できると思います。
しかも天孫降臨の際に先導役をつとめた天忍日命が
自分の祖先なのであろうと。

すると、自身の本当の故郷を探すことは、天孫降臨
の場所を探すことであり、それはこの国の成り立ちを
知ることにつながるわけです。
記紀の国生み〜天孫降臨の地名では、婚姻、闘争、埋葬などの
内容から史実ではありえなくなります。
ローカルな神話の寄せ集めとしてもやはり無理が多い。

可能性が高いのは、ローカルな史実に地名を少しだけ
加えたり変更したりしたのではないか。
もしローカルな史実だとすると、強い条件が課されます。
まず、山(天つ国)、平地(葦原中国)、海(海原)が接近しており、
いくつかの岬がある。
ならば、「海岸大辺路」をすれば見つかるのだろうと。

そして、見つけたその地が鷲峯山説法図であれば、
どう感じるでしょうか?
法華経において常に釈尊は鷲峯山におられ、
衆僧と共に鷲峯山にお姿を現されるとされています。
しかも仏舎利が納められたストゥーパの第一塔がある山です

自身の祖先−この国の故郷−仏教(真理)の故郷

小から大へ、大から小へ。
すべてのはじめ「一」。

これが空海さんの「随喜渇仰の涙」の理由だと、私は思うのです。



空海さんと遣唐使


空海さんはよく地方豪族の出だから庶民派という
言い方をされますが、それは正しくないと思っています。
天尊の血筋として、しっかりと国を支えていこうとしていたのだと思います。
現代では、国家というと何か民衆を抑圧するような機関で
あるかのような妙な考え方がありますが、
国家の安泰のためには民衆が幸せになることが必要でしょう。
空海さんはそれを心から願っていたと思います。

現代的なものの見方で価値判断をすると、
歴史は直視できなくなります。

たとえば、今は道路が整備されているので、
国内の運送では陸上が主だけれど、それ以前は
水上のほうがコストがかからず主であったことは事実です。

同様に、家柄は古来から社会において厳然とした関心事であり、
現代のようなある種のタブーではなかったことも事実です。
仏陀にしてもキリストににしても、その家柄は記されています。
仏陀は釈迦族の王子であり、キリストはアブラハムよりダビデを
とおりて42世代。

いかにその個人が優れていようが、その時代の社会の掟は
その個人にのしかかってきます。
空海さんが遣唐使に加わることができたのは、何故でしょうね。

後押ししてくれそうな人物といえば、
阿刀大足、故佐伯今毛人の縁者とされていますね。
それにしても空海さんは7年ほどの空白ののちに突然現れて、
縁者の信頼を得て入唐僧に選抜されたわけで・・・。
一介の私度僧として修行していただけではよく言われるように
かなり妙な話ですよね。

そう考えると、その時期に選抜に値する何らかの仕事、
重要な地位にある縁者に相当の期待をかけられるだけの
仕事を成し遂げていたと考えるほうが自然な気がします。
ただし、足跡を残すべきではない仕事だと。
そこで、忌部一族の斎部広成「古語拾遺」(807)
が思い浮かんでしまうのです。
空海さんの入唐(804)の3年後になります。


http://www.city.muko.kyoto.jp/nagaokakyo/nk24.html
上の年表見ててもわかるけど、空海さんの
青年時代は異様な雰囲気だったんだろうな。
藤原種継暗殺、大伴氏ら数十人逮捕。
さらに早良親王幽閉、そして祟りか・・・。
いずれにせよ私なら大伴氏も後ろ盾にして、磐石の態勢で
遣唐使に加わりますね。

と書いていたら、インターネット恐るべし。
空海さんは大伴国道(善男の父) にあてた書状で、
大伴氏と佐伯氏が遠祖を同じくする旨を告げているそうですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/keizu.htm

古語拾遺によれば、天皇家と大伴氏と斎部氏の先祖は兄弟です。
そして地方の佐伯氏は大伴氏と同祖と考えていたのであり、
地方の忌部氏は斎部氏と同祖と考えていたわけです。
しかし、中臣氏−藤原氏の計略によって、中央と地方の勢力は
分断されました。そこで、もう一度それらの関係と大伴氏−斎部氏
との関係を全国の同族に確認させたのが空海さんだとすれば、
両氏がなみなみならぬ期待を持つのは不思議ではありません。
そして、空海さんの帰国後、仏教による国家鎮護によって天皇家との
深い繋がりが再び蘇り、その目的は完全に達成されたわけです。
しかし、応天門の変による伴善男の失脚によって藤原氏の天下
となるわけですから、歴史というものは恐ろしいものです。
ここまであからさまな藤原氏の専横という事実があっても、
その計略を見抜けない歴史家というのはどうかと思いますけど。


難破して1年延期という運のよさについてですよね。
空白の7年間ずっとそのときの正式な遣唐使に加わろうと
していたというのは正しくないですね。
(難破陰謀説を考えないかぎり。)

もし、このとき正式な遣唐使に加われなかったら、
新皇帝が即位するときに便乗したか、
密航になってしまいますね。あとは30年後か・・・。
結局、806年に新皇帝即位を賀する船が高階真人遠成
が率いています。(徳宗皇帝は742−805だから、63歳で崩御)
この船でなぜか空海は帰ることができたのでした。
なお高市王−長屋王−高階真人の系譜。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01215.htm

それが正式に行ける事になったのは、やはり幸運かな。
しかも早く行かないと恵果さんが亡くなっていたかも。
さらにすぐには帰ってこれなくなりそう。
このあたりすべて幸運つづきの空海さんですよね。


大麻山周辺と四国遍路の意味

まず四国遍路の意味。
胎蔵界曼荼羅中台八葉院に基づくわけですね。
行者→菩薩→如来→大日如来という過程を
経験するわけです。

観@仏←弥
↓@@@@
阿@大@宝
@@@@↑
文→開@普

中 大日如来
東 宝幢如来
南 開敷華王如来
西 阿弥陀如来
北 天鼓雷音如来(釈迦如来)

東南 普賢菩薩
南西 文殊菩薩
西北 観自在菩薩
北東 弥勒菩薩

東 阿波 発心
南 土佐 修行
西 伊予 菩提
北 讃岐 涅槃

では、空海さんが霊山寺で涙を流して喜んだと伝えられる
「釈迦牟尼佛、文殊菩薩、普賢菩薩」とはなんのことでしょう。

空海さんはここ霊山寺を「鷲峯説法」だといったわけです。
以下の絵を参考にしてください。
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00000920.htm
空海さんが随喜渇仰の涙を流すほどのことだから、
この絵の中の「鷲の頭」、「釈迦牟尼佛」、「文殊菩薩」、「普賢菩薩」が
この地において何らかの意味合いがある対象ではないかと思うのです。

まず大麻山が鷲の頭であることに気がつきます。
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/index.html
だから大麻山=鷲峯山=霊鷲山=霊山なわけです。
(第一番札所は、竺和山霊山寺)
そこで山に注目しましょう。
行者はこの地=霊山寺にいるわけです。
ここが最終的には中心(大日如来)になる場所です。

北には大麻山があります。
西には日照山極楽寺(本尊阿弥陀如来)がありますね。
東には萩原山があります。きれいな対称構造です。
日照山を阿弥陀如来、萩原山を宝幢如来にたとえてみましょう。
萩原山には後世「宝幢寺」が建てられたくらいですから。

すると、普賢菩薩は東南にあるべきであり、
文殊菩薩は南西にあるべきです。
その方向には何があるのでしょう?

小さな山の集まりである古墳群です。
しかも単なる古墳群ではありません。
ひとつは「日本における前方後円墳の発祥地ではないか」
といわれ最近考古学者に注目されている「萩原墳丘墓」を含む一帯です。
もうひとつは徳島北部における最大級の前方後円墳「愛宕山古墳」
を含む古墳群の一帯です。愛宕山古墳は自然地形を利用した
畿内的な様相が濃い古墳です。
これらの古墳群を普賢菩薩、文殊菩薩にたとえているのではないか?

わたしはそれらの山と山裾を記紀の「出雲」「日向」
に比定しました。古墳の築造時期も卑弥呼=天照大御神
として一世代30年程度で大体合います。
つまりこのローカルな地域こそが記紀の舞台だと。
すると残る「天つ国」はどこか?

大麻山しかありません。大麻山は北にあります。
釈迦牟尼佛は北の大麻山にいらっしゃるはずです。

この流れでいくと天鼓雷音如来(釈迦如来)は何を意味するべきか?

天照大神じゃないでしょうか?
一番の神様であるべきです。つまり「一」であることが重要なのです。
つまり卑弥呼の径百余歩の冢(自然地形を利用した墳丘墓)
は大麻山近辺にあると推測しています。

残念ながら、あまりにもこのあたりの古墳の情報量が
なぜか少なすぎる。決してないわけではないのに・・・。

保育社「日本の古代遺跡 徳島」ではたった三行です。
「板東谷川によって形成された扇状地の奥まった地点には、阿波一の宮
の大麻比古神社が鎮座する。この周辺にも昭和初期までは平草古墳群、
大麻比古神社古墳群など箱式石棺や積石塚が遺存していたようであり、
玉類、鉄刀、銀環、須恵器などの出土をつたえている。」

四国遍路の意味とは

四国全体を巡る
大麻山(**山)を巡る
霊山寺(**寺)を巡る
行者の心を巡る

これらの方法によって大日如来と一体になること
を目指しているわけです。
曼荼羅の中の曼荼羅の中の曼荼羅の中の曼荼羅が
あなたの心であり、その中心が大日如来です。
そして、この宇宙すべてが大日如来でもあります。

大麻山周辺にいくつかのお寺を開いた行基菩薩、
霊山寺を一番とした空海さんは、この地が
「一番」の場所であることが分かっていたと推測します。

「壱」と「板」と「伊都」と「怡土」

問題
板野郡(阿波国、大麻山)、伊都郡(紀伊国、高野山)、怡土郡(筑前国、平原)
の「いた−いと」とはいったい何だったのでしょう。

ヒント 
魏志倭人伝を読みましょう。
そしてこれらの郡の周辺に以下の郡があることに注意しましょう。
那賀郡(阿波国)、那賀郡(紀伊国)、那珂郡(筑前国)


「伊都」に関しては、「壱」→「伊都」と想像しています。
だからこそ、霊山寺を一番にし、高野山を選んだわけだと。
「壱」であることが重要なのです。


ずっと議論されてきた「邪馬壱国」か「邪馬台国」
なのかは、色んな議論を追いましたが正直どちらとも
言えないと思いました。(新文献が発見されたら結局いずれ
の論理もひっくり返りそうな不確かさという意味です。)

ただ、「邪馬壱国」が古代のやまとことばから
かけ離れた言葉であったというのはよく分かります。
古代のやまとことばでその場所に「壱」は普通ありえません。
もしその国名が事実なら、漢語をあやつれる人間が
意味がわかって名づけたような国名です。
しかし「卑弥呼」などの「h」だって古代やまとことばでは
妙なわけで、渡来人の影響を想像するべきだと思います。
現代であれば「やまワン国」もありうるのかと。

「やま・いと」は生粋のやまとびとには発音しにくいので
「やまと」と発音せざるをえなくなってしまったと。
まあこういうのは理論の美しさや単純さで比べるしか
方法はないかもしれません。

地神塔


四国東部、淡路島には地神塔というものが
数千基あるそうです。
農業に関連した 土地の神様ということで、
近世に建立された5角柱の塔です。

−−天−−
倉−−−大
−−−−−
−埴−少−

天 天照大神
大 大己貴神
少 少彦名命
埴 埴安媛尊
倉 倉稲魂命

これなども北を天照大神を北にしたい
理由だったりします。
下に珍しい地神塔の対称対の画像をおいています。

阿王塚古墳(神獣鏡2面が宮内庁に保管。阿王です!)
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/aou.html

なぜ邪馬台国四国説という作業仮説がないのか
−比定範囲の石高−

なぜ「邪馬台国が四国ではないか」という
作業仮説は、まったくないに等しいのでしょうか?
だれか、この疑問に論理的、学術的に
答えられる歴史学者か考古学者はいますか?

考古学者の北條氏がおっしゃるように
「徳島が片田舎として扱われたから」
とでもするのかな?
http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/2001/0920.htm

ひとつの予測される答えは、
四国では邪馬台国「七万余戸」投馬国「五万余戸」が入りきらない。

しかしここは、「可」を使っているのだから実数ではなく、
なんらかの方法で概算したと考えるべき。
その方法が何なのかをはっきりさせればこの答えでもいいかな。

簡単な方法は、面積か川幅かな?
奴国2万戸との対比で矛盾がでますか?

耕地面積は概算が難しいと思いませんか?
その方法は直接人口を調べるのと大差ないので、
その方法はとられていないと思いますが。

でも面白いのでちょっと調べてみましょう。
時代が違うのでかなり修正が必要になりますが、
実数で調べられる石高で考えてみましょう。
そのあと弥生期との違い(耕地区域、海岸線など)
を考慮しなければなりません。

対馬 1000余戸(良田なし)
壱岐 3000許家
末ロ 4000余戸
伊都 1000余戸
奴 20000余戸
不弥 1000余戸
投馬 50000余戸(可)
邪馬台 70000余戸(可)


http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/daimyou/daimyou-main.html
対馬 20165石
壱岐 15820石
筑前 523512石
阿波 186753石
淡路 63000石
讃岐 171815石
伊予 281600石
土佐 202600石

http://www.sewayaki.jp/ken39/yasu/rekichi/rekichi17.html
那珂郡 36498石
早良郡 38672石
粕屋郡 53410石
御笠郡 32607石
席田郡 8716石
5郡計 169903石
3郡計 128580石
筑前 502416石

志摩郡 37422石
恰土郡 16105石

*奴国の比定範囲=上記5郡
20000余戸−170000石とすると
1000余戸−8500石
3000余戸−25500石
50000余戸−425000石
70000余戸−595000石

*奴国の比定範囲=上記3郡
20000余戸−130000石とすると
1000余戸−6500石
3000余戸−19500石
50000余戸−325000石
70000余戸−455000石

(伊予+土佐)*1/2 242100石
(阿波+讃岐)*3/4+淡路 331926石

延喜式では、阿波、讃岐、伊予は上国、土佐は中国、
淡路は下国。南海道のもうひとつは紀伊で上国。
http://www.h3.dion.ne.jp/~t.r.s/today/101-150/101.html

ただここは弥生時代に魏使がどのように概算したかを
予測したいのです。
あてずっぽうではまずいわけで、なんとかして
有効数値1桁で算出したわけですよね。

(1)ある程度邪馬台国内を廻り、集落の数を数えて、
あとは面積で概算。
(2)倭人から集落の数を教えてもらって、
1集落の平均予測戸数を掛け算。

だいたいこんなところではないかと推測します。

実数調査は考古学調査が進めば次第に分かってくるでしょう。

現在でも
「どのくらいの範囲を調べてどのくらいの遺跡が見つかったのか」
を考慮に入れて遺跡数を予測すれば、
ある程度の誤差で予測が可能だとは思います。
ただ、その当時は河川の氾濫もあるので低地よりも山裾での
生活が主だったでしょうし、そういった未開発地域での
メッシュ調査をする必要があって、予算が問題になります。
(特に四国のような予算が少ないところでは。)

「現在見つかっている遺跡数」から人口を割り出すと、
未開発地域は実数よりもかなり小さくなってしまうでしょう。
たしかその手法で昔計算していた値があったはずですが、
現在その手法でやるとどのくらいの違いがあるのでしょう。

大杉博氏の唱える邪馬台国四国山上説というものがありまして、
多くの邪馬台国論者に論争を挑む好戦的な説でした。
氏の論理は確かにあいまいな所、おかしな所がありましたが、
正論もいくつかありました。
曰く「比定地図なしで、なんの比定なのか」
たしかに、地図なしで比定している邪馬台国論者が多いです。

さて、そこで語られていたことのひとつに、
四国の山の頂(高地)付近にあるため池があります。
寺戸恒夫「徳島の地理」p.61では、徳島県内で確認
されているだけで100くらいプロットされています。
その本の意見によると、そのため池は人工というよりも
二重山稜というものらしいです。
つまり、谷が山地を侵食し、山腹の押さえがきかなくなって、
重力によって山体上部がずり落ち凹地ができる。

詳しく知りませんがその周辺で土器が出るということでしたので、
そういった地域も調べないと、戸数の実数予測は誤差が
大きいままです。

大麻山周辺と般若心経秘鍵


「秘が中の極秘」を喝破した。
しかし言うべきではないこともあった。
この意味は、空海さんの著作を読むと、
思い当たる節がありませんか?
なぜ空白の7年を語らないのでしょうか?

空海さんは山中を闊歩することを好んだ。
現代人は低地の論理で、高地を語る。
何もなくて不便だ・・・と。
ああ、何という勘違いをしているんだろう。
大事なことを忘れてしまっているなあ、と思うのです。

少なくとも空海さんがなぜ山を好んだか理解
できないというのは、あまりに浅いと感じます。

高野山に曼荼羅図が描かれていますね。
行者にとって山は大日如来の胎内なのでしょう。
そして山とひとつになることが修行です。

もちろんそう考えることが出来るかどうかは、
その人の気持ちや能力によります。
「顕密は人にあり」ですから。
ぜひ秘鍵を読んでみてください。



霊鷲山と大麻山周辺と邪馬壱国

霊鷲山の話ですが、唐にいたときに童子に先導されて
インドまでいったことになっているのでした。

http://www.ho-senji.jp/kukai/guhou.html
http://www.ksk-jp.com/publication/kouya/kouya_relation.htm

この伝承ができた経緯はなんとなく想像できます。
「空海さんが霊鷲山で釈迦の説法を聞いた」とすれば、
唐にいたとき以外はありえないと考えたかな?
どうして空海さんがこの国の成り立ちを
調べたくなるのか、2つの理由を挙げました。

1 ご自身の源を天尊としたこと。具体的には天忍日命
(大伴宿禰の祖)。
2 入唐に際し(あるいは入唐後でも)、日本と中国との
歴史を知っておくべきだった。

もし空海さんが中国正史をいくつか読み、そのうち魏書を
読んだとすると、邪馬壱国がどこにあるか決めることが出来る
重要な情報が記されていることに気づきます。
空海さんでなくとも少しでも自分の頭で物事を
考えられる人なら気づくことです。

それが何か分かりますか?
文献では邪馬台国を比定できないと思っている人は
もう一回倭人伝を読んでみてください。

http://www.geocities.co.jp/yamatai4/gisi.html

それは24国の地名です。特に次々にあるという21国の地名は
比定にとってとてつもなくすばらしい情報なのです。
もし少しでも「比定」という作業をおこなったことがある者ならば、
これは当たり前ではないでしょうか。
「次々にある」ということが何よりも大事であることに
注意してください。

ただし中国では漢字音の変遷があってその当時の中古音で
読んだのでは地名がそのまま当てはまりません。しかし、
空海さんならば話は別です。漢詩を知っている人間であれば、
上古の押韻がその当時と異なることは知っています。

いずれにせよ、空海さんは故郷に近い
「斯馬(しま)」「巳百支(じぱき)」「伊邪(いや)」
「都支(たき)」「彌奴(みな)」あたりが讃岐にあることを
見抜いたと推測します。

すると、一番大きな国である邪馬壱国はどこなのだろう
ということになります。順番からいって東讃岐でしょうか?
しかし、古語拾遺から察すると、讃岐忌部氏には先祖が
阿波であることくらいの伝承は残っていて、
空海さんはそれを聞いていたかもしれません。
いずれにせよ自身の先祖だと思っていた天忍日命 のいた場所と
四国東部のどこかがつながります。
そして、当時の都は畿内にあったわけだから、
記紀の神武東征が史実だということが分かるわけです。
さらにその流れで、天照大神=卑弥呼を推論するでしょう。

あとは、記紀の舞台さえ探せばよいわけです。
その場所とは、山(天)と平地(葦原中国)と海が
近接しており、墳墓の証拠が残っているところ。

空海さんは海岸大辺地を歩き、そうして見つけた
その場所が「阿波国板野郡大麻山」です。
イザナミ、イザナギ、天照大神、月読命、スサノオら
の墳墓に思いをはせ、まるで霊鷲山を思わせるような
そのすばらしい地形に感嘆したことでしょう。
だからこその「霊山寺=壱番さん」なのです。

確認のためには、他の国々の地名が倭人伝の国名と
対応することを調べます。そして、四国を廻って
地名が対応していること確かめ、空海さんはご自身
の推理を確信したことでしょう。

もし「空海さんがこの地を霊鷲山とみたてて涙を流した」
ということを後世の人が作り上げたとすれば、
作った人は大麻山周辺が重要な場所だと喝破した人
だと思いますので十分尊敬に値します。

入唐の前後に空白の7年と1年があり、そのあたりで
空海さんは以上の調査(はじめは意図的ではないかも)
を修行とともに行っていたと推測しています。



大麻山index
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