倭人伝との詳細な対応

倭人伝との詳細な対応

 天照大神=卑弥呼、猿田彦大神=魏使という説を述べた。
さらに細かく倭人伝の人物と記紀の神を結びつけることが
できるだろうか?
 つまり、卑弥呼が帯方郡や魏に派遣した難升米、都市牛利、載斯烏越、
伊声耆掖邪狗らは、一体どの神に対応するのだろうか?


上古音−中古音

難升米
nan-thi∂ng-mer nan-∫i∂ng-mei

都市牛利
tag-dhi∂g-ngiog-lied to-ziei-ngi∂u-lii

載斯烏越
ts∂g-sieg-.ag-h^iuat ts∂i-sie-.o-h^iuΛt

伊声耆掖邪狗
.i∂r-thieng-dhier-diak-ngiag-kug .ii-∫iεng- zii-yiεk-zia-k∂u


倭人伝

 238年、卑弥呼が大夫難升米と次使都市牛利を帯方郡に送った。
明帝は難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を
仮に与え、ねぎらって物を賜い還すと述べた。卑弥呼には金印紫綬
を仮に与えると述べた。

 240年、建中校尉梯儁は倭王に詔をもたらし、皇帝からの賜り物
を送り届けた。(難升米・都市牛利はともに倭国に帰国)
倭王は使に因って上表文を奉り、詔恩に答謝した。(梯儁は魏に帰国)

 243年、伊声耆掖邪狗は皇帝に献上品を送り届けた。率善中郎将
の印綬を仮に与えられた。

 245年、皇帝が難升米に黄幢を仮に与えると述べた。

 247年 狗奴国とはもとより不和であった。卑弥呼は郡に載斯烏越
を郡に遣わして、狗奴国との交戦の状況を説明した。
塞曹掾史張政は詔書・黄幢をもたらし、難升米に仮に与え、檄をつくって
告諭した。(伊声耆掖邪狗はともに倭国に帰国?)
卑弥呼が死んで、大きな冢を作った。男王を立てるが国中が服さないので、
卑弥呼の宗女壱与を女王に立てると国中が平定した。張政は檄をつくって
壱与に告諭した。壱与は大夫率善中郎将掖邪狗ら20人を遣わし、張政らを
送らせた。(張政は魏に帰国)


倭人伝の人物と記紀との対応

参考:系図と年代

卑弥呼=比売王
倭音 pi-mi-ha
魏音 piei-miΘi-ha


難升米=天之忍穂耳(天忍骨)
倭音 ama-noo-shipo-mii
魏音 ***-nan-si∂ng-miΘi

 「天照大御神の命もちて『豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、
我が御子、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の知らす国ぞ』
と言因さし賜ひて、天降したまひき。是に天忍穂耳命、天の浮橋に
多多志て詔りたまひけらく、『豊葦原の千秋長五百秋の水穂の国は、
いたく騒ぎてありなり。』と告りたまひて、更に還り上りて、
天照大神に請したまひき。」(古事記)


都市牛利=手力
倭音 ta-zi-ka-ra
魏音 ta-zi∂i-ngw∂u-liΘi


載斯烏越=須佐之男(素戔嗚)
倭音 su-sa-no-wot
魏音 ts∂i-siei-?o-Iwat

 「是の時に素戔嗚尊、其の子五十猛神を帥ゐ、新羅国に
降り到り、曾尸茂梨の処に居す。乃ち興言して曰はく、
『此の地は吾居らまく欲せず』とのたまひ、遂に埴土を以ちて
舟に作り、乗りて東に渡り、・・・」(日本書紀)


伊声耆掖邪狗ら20人=天鈿女ら一行
伊勢瀬八坂
倭音 i-se-ze-ya-za-ka
魏音 iΘi-sIeng-ziei-iak-zia-ko

 日本書紀と古語拾遺では猿田彦大神は天鈿女に
「自分を呼んだのはあなただから見送るように」
と要求しており、古事記では天照大神が天鈿女に命令している。
それに対し天鈿女も応えている。
そして猿田彦大神に気に入られた天鈿女の一族は、猿女と呼ばれるようになる。
一瀬(iet-ze)−伊勢瀬(i-tse−ze)−五十鈴(i-su-zu)のような変化と推測する。


邪馬台国の官名である伊支馬等の対応は不明。
また前半と後半の記述は時代が異なるように思える。

伊支馬
.i∂r-kieg-mag .ii-t∫ ie-ma

彌馬升
mier-mag-thi∂ng mie-ma-∫i∂ng

彌馬獲支
mie-mag-h^uak-kieg mie-ma-h^uεk-t∫ie

奴佳「革是」
nag-keg-ter no-kai-tei


大麻山index inserted by FC2 system