定説への反論

 邪馬壹国(邪馬台国)は魏志倭人伝(三国志魏書東夷伝倭人条)に記された3世紀前半にあったとされる国です。 その所在地がどこであったのか江戸時代から論争が続いていて、 現在は畿内説が有力とされています。

 しかし、このHPでは有力とされる畿内説や九州説に対し異議を唱えます。決して邪馬台国は畿内にあったわけでもないし、九州でもありません。確かに考古学的な証拠から、後の大和朝廷につながる勢力が奈良・纒向に出現したといえます。しかもそれは3世紀の早い段階であり、各地の勢力の影響を受けた有力な勢力といえるでしょう。 一方、北九州においてもより早い段階から大陸の影響を受けた 先進的な有力な勢力があったことは間違いありません。
「だから邪馬台国は畿内か九州」という考えは 完全に的外れなのです。

 なぜなら、それらの説では倭人伝のデータをきちんと解釈できないからです。 一体どのデータを解釈できないかというと、 邪馬台国、投馬国、 狗奴国や旁国21国がどこにあったのか地図に示す という最も重要な部分です。どこにあったのかが問題なのに 解答を地図にかけない畿内説や九州説が有力だというのは妙な話です。 「いや、両説とも比定案をみたことがある」という人もいるでしょう。 しかし決して以下の点が守られていないことに気づくはずです。

旁国21国が順番になっていません。

あるいは順番にしていても主要地名が国名に対応していないのです。 倭人伝にははっきりと「次有・・国次有・・国」とあるのに、 これまでの比定案ではその順番が守られていません。 もし日本のどこにもそのような記述に適合する場所がないのなら、 倭人伝が間違った情報を載せているといってもよいでしょう。

しかし東四国説では、魏志倭人伝の24の国々を
「国名」と「地名」と「弥生後期の遺跡」の対応によって
ひとつずつきっちり比定できます。

 東四国説の解答を以下に書きます。漢字音をどう読むか (古代漢字音は現代漢字音とは異なることに注意しましょう)、 どうして方位や日数がおかしいのかということが肝心なので、 参考の部分をよく読んでください。

比定地図

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